同志社中高の礼拝での語り

先日、同志社の中学校・高校の礼拝に、動画にてお話させていただきました。

www.girls.doshisha.ac.jp

私の個人的な語りですが、誰かに届けばと思い、シェアさせていただきます

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コリントの信徒への手紙1、第13章13節

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 

皆さん、おはようございます。

初めまして。

私は神奈川県で内科の医師をしている吉田といいます。

 

突然ですが、皆さん、誰にも言えない苦しい悩み事はありますか?

私が皆さんの年頃の時には、ありました。

およそ30年前、12歳になった時に、キリスト教系の女子中学校に通い始めました。

高校に進んだ時、私は同級生の女の子を好きになったのです。

とても怖い事のように感じ、そのことは秘密にしなければいけないと思っていました。

最近はLGBTという言葉をよく耳にするようになりましたが、当時はそういった言葉も存在しない時代でした。

 

皆さんは、同性愛のことをどう思っていますか?

さらに言うと、同性を好きになる人のこと、同性のパートナーと一緒に暮らしている人のこと、同性のパートナーと一緒に子育てをしている人のことをどのように思いますか?

 

別に問題ないんじゃないかと思っている人もいれば、それは大きな罪だと思っている人もいるかもしれません。

皆さんの学校の先生方の中にも様々な考えの人がいると思います。

私は、神様を信じるクリスチャンでもあります。

信仰と自分のセクシュアリティのことについて、生きているのがつらくなるほど悩んだ時期もありました。

 

聖書が同性愛について何を語っていて、それをどう解釈するのか、基督教の各宗派が同性愛についてどう考えているか、何が正しいのか。

今日はそういったことはお話しません。

セクシュアリティと信仰についてどう悩み、どう生きてきたのか。私の物語を皆さんにお話したいと思います。

 

私が、友達と自分はどうも違うようだと感じ始めたのは中学校の頃でした。

友達がメイクやファッションの話をしても、私はそういったことに全く関心がなく、制服のスカートを履くのにも抵抗がありました。ボーイッシュな女の子として周りには受け入れてもらえていました。そんな中で、同級生のある女の子のことを好きになったのです。その時に、これはバレたら大変なことになると思い、周りに話せなかっただけではなく、自分にもこれはなかったことだと言い聞かせました。

 

それから、大学に進学しました。最初は医学部ではなく、理学部という学科に進学しました。初めての1人暮らしで、友達と楽しく過ごし、彼氏もできました。ところが、また好きな女の人ができてしまったのです。女の人を好きになった時の気持ちは、男の人への気持ちよりもずっと強いものでした。

これは、もうごまかせないと思い、そこから私は未来がまったく描けなくなりました。インターネットが自由に使えるようになったばかりの時代で、同性を好きになる人達がどんな暮らしをしているかを知ることもできませんでした。10歳の時に亡くなった母親の墓石の前にいって、私は変態かもしれない、これからどうやって生きていったらいいのだろうかと泣き崩れたこともありました。

 

悩んでいた時に、様々なセクシュアリティの大学生が集まるサークルに出会うことができました。ゲイやレズビアンバイセクシュアル、トランスジェンダーの友達ができ、皆でしょっちゅう集まって、スポーツをしたり、旅行に行ったり、楽しいことをたくさんでき、段々と自分はこのままでいいのだと思えるようになっていきました。

生まれて初めての彼女と付き合うこともでき、本当に楽しい学生生活でした。

 

そんな中で、家族のことで大きなもめ事があり、私はもっと深く人を愛せる人間になりたいと強く思うようになりました。私の周りには、クリスチャンのいい友人がたくさんいて、あんな風に生きられるようになりたいという憧れがあり、教会に通い始めました。ところが、当時通っていた教会では、同性愛が罪として教えられていました。礼拝の説教で、ゲイの牧師がいるけれど、それは悪魔の遣いだ、と語られた時は、ナイフを突きつけられたような気持ちになりました。

キリスト教を信仰することと、同性愛者であることは両立し得ないのだと思い悩み、付き合っていた彼女に自分が考えていることを話し、別れを選択しました。

 

それから2年ほど経ち、私は洗礼を受けました。洗礼を受けた時は、ものすっごくハッピーで、私はこれから神様に従って生きていくんだー!と喜んでいました。

 

ところがです。数年後、また好きな女性ができました。

 

私は異性愛者として生きていこう、もしくは一生一人で生きていこう、そう考えていても、心はコントロールできません。

クリスチャンになる前よりも深い悩みの中に突き落とされたような状態でした。

悩んで苦しくて、教会の先輩にそのことを打ち明けました。すると、先輩は泣きながら「清く生まれ変わって欲しい」と言い、そのように祈りました。

けれど、私は既に知っていました。これは変われるようなことではないのだと。

何度も泣きながら「同性愛が罪だというのならば、何故あなたは私をこのように作ったのですか」と神様に怒りをぶつけるような祈りをしました。

医師になってから勉強して知ったことですが、かつて同性愛者は病気だとされていて、異性愛者に治そうとする治療が医学の名の元で行われていました。結果、何が起こったか。同性愛者は異性愛者には治りませんでした。それだけではなく、そういった治療を強要された人達は、うつ病になったり、自殺しようとしたり、多くの悪影響を及ぼし、こういった行為には科学的な根拠がなく、今は多くの地域で禁じられています。そして同性愛は病気ではないということが医学的に既に認められています。

 

こういったことを当時の私は全く知らず、どんどん追い詰められていきました。基督教を信じることと、同性愛者でいること。私はそのどちらもやめることができませんでした。それが罪なのであれば、死ぬしかないのではないか。

そう思い詰めていくうちに、うつ病になりました。身体も心もフリーズしたような状態となり、まったく動けなくなってしまいました。私は医師として働いていましたが、仕事に行けなくなり、しばらく休職しました。

 

教会にも行けなくなりました。

 

今思い返すと、教会に行けなくなったのが、よかったと思っています。あのまま教会に通って自分を否定され続けたら、私はここにいなかったのではないかと思います。

 

皆さん、これから先、もし本当に辛いことがあり、もう生きていけないような状況があったら、逃げてください。死にたくなったら、逃げてください。死にたくなるような場所で頑張り続ける必要はありません。命あってこその人生です。

 

話を戻します。うつ病になってから、時間をかけて少しずつ回復し、セクシュアリティについての歴史も勉強をしました。この日本社会でLGBTに向けられた偏見を自分の中に吸収し、自分を変態だと思っていたことが今なら分かります。また当時通っていた教会が、同性愛に関して特別厳しい宗派であったことも知りました。

 

自分自身への偏見が少しずつなくなっていき、今は女性のパートナーと犬と一緒に、穏やかな生活を送っています。家族、友人、職場でカミングアウトし、受け入れもらえ、嘘をつく必要のない、自分が自分でいられる毎日が遅れるようになりました。

 

そして、今は医師としてLGBTについて医療者に知ってもらうために講演活動などを行っています。医療機関でもLGBTの人たちは差別的な対応にあうことが少なくないのです。

洗礼を受けた時、私は自分の強みを活かして神様に役立つ人間になるぞ!くらいに思っていました。ところが、神様はまったく反対のことをしました。私の最も弱い傷んでいた部分を用いられました。

今日、こうやって皆さんの前でお話していることも、神様の計画なのだと感じています。私は教会から逃げました。今も教会には通っていません。それでも神様は私のことを手放さずにこうして用いてくださっています。

 

さて、皆さん。最初に聞いたことをもう一度聞きます。

今誰にも言えないような悩み事はあるでしょうか?

たとえあなた以外、誰も知らなくても、神様は知っていらっしゃいます。

その痛みに、神様はすでに触れていらっしゃいます。

 

また、皆さんは同性を好きになる人をどう思いますか?

そういった人に会った時にどう行動するでしょうか?

そこにあるのは、信仰でしょうか?愛でしょうか?

 

聖書を手に、正しいことを人に求めると、傷付け合いや争いが起きるでしょう。歴史がそのことを教えてくれています。では、聖書を手に、人を愛することを真に求めたなら、世界はどうなるでしょうか。

 

私の物語を通して、聖書に書かれている愛とは何かについて、皆さんに考えていただけたら嬉しいです。