人生を変えた出会い ~カウンセリングに7年通いました~
先日、パートナーの杏奈と、「人生を変えた出会いはあるか」という話で盛り上がりました。今に至るまで、この人がいないとヤバかったという恩人は何人もいるのですが、「人生変わったな~」という明確な実感があるのは、カウンセラーのN先生との出会いです。
今日は、うつ病を患った後、カウンセリングに7年間通った結果、自分が整った経過をシェアしたいと思います。
LGBTQの人々は、うつ病の罹患率や死にたいという気持ちを抱くリスクが高いことが知られています。私も、小学生の時には既に死にたい気持ちがありました。その感情がセクシュアリティーに由来するものだったのか、家族関係に由来するものだったのかは分かりません。30歳頃にも、生きるということを修行のように感じていて、常に死にたい、人生を終えたいという気持ちがありました。
それが今は、杏奈と一緒に健康に長生きして、人生を楽しみたい!と思っています。
以前は、自分の死にたいという気持ちが消える日がくるなんて想像ができなかったので、不思議な感じです。もうリアルには、昔の苦しかった気持ちを思い出せなくなりました。
カウンセリングに通い出したきっかけは、うつ病を患った経験でした。ある日突然感情がコントロールできなくなり、動けなくなってしまったのです。家族関係のことも、キリスト教の信仰のことも、セクシュアリティのことも、忙しい仕事も、すべてが行き詰まりのように感じていました。
ほとんど頭が働かなかったのですが、ぼんやりと、これは薬を飲んで気分が回復すればOKということではないだろう。人生を整理しないと、どうにもならないところまできていると思いました。
ネットを使って、臨床心理士のカウンセリングも受けられる精神科を探して通院を始めました。初回の診察の時点で、「どうにもならない感じがあるので、カウンセリングも受けさせてください」と申し出ました。
そこで出会ったのが、N先生でした。
N先生に言われたのは、「あなたはワークホリックです。依存症は人間関係の病です。自分の価値を人に任せるのではなく、あなた自身に取り戻す必要があります。けれど、その道のりは、薄皮を一枚ずつめくっていくようなプロセスで時間がかかります」ということでした。
最初は何を言われているのかよく分からず、「早く回復して職場に戻りたい」とばかり訴えていました。働いていない自分には何の価値もないと思っていたのです。
様々な話をし、認知の歪みを修正する認知行動療法を受け、依存症に関するDVDを見たりプリントの読み合わせをしたりしました。
途中で、アダルトチルドレンの自助グループにも行ってみましたが、セクシュアリティのことを話せず、真の自分を打ち明けるのが難しかったことから、自助グループには通わないことにしました。(最近はLGBTの人向けの自助グループもあるようです)
抗うつ薬は2~3年ほどで終了し、職場にも1年ほどで仕事量を軽減してもらって戻ることができました。カウンセリングは調子がとても悪かった時は毎週通い、調子がよくなってきたところで段々と頻度を減らし、最終的には2~3か月に1回程度の頻度で通いました。さぼったことは一度もありませんでした。それこそ、雪の日もあったし、台風の日もありました。何しろ、もう修行人生は続けたくなかったし、続けられないという強い気持ちがあり、絶対に回復するんだと食らいつくような気持ちで通っていました。
そして、7年が経過したある日「吉田さん、今日でカウンセリングは終了です。もう精神科には来ないようにね」と言われ、カウンセリングは終わりました。
N先生に、カウンセリングに通い出して、完治するまで一度もドロップアウトせずに通院する人はほとんどいないので、私は特殊ケースだと言われました。そして、「今だから言えるけど、吉田さんは色んな問題が絡み合っていて、最初に会ったときは私もどうしようかと思ったほど複雑だったのよ」と笑顔で言われました。
最初は、「薄皮を一枚ずつはがしていくようなプロセスで、価値を自分に取り戻す」という言葉の意味が全く分からなかったのですが、実際に今は、仕事をしていなくても、何かができる人間でなくても、人に必要とされなくても、自分が好きだし、このままでOKで、生きていてよいと思えるようになりました。
何が効果的だったのかと振り返ってみると、これが効いた!という単純なことではなく、毎日の生活の中で感じたことを話し、長年積み上げてきてしまった考え方や物の見方の歪みを修正していくという地道なプロセスだったように思います。家族や周囲の人との歴史や関係性についても自分の見方だけが真実ではないのだということも振り返りました。
今もまだ課題なのは、すぐ働き過ぎてしまうこと。仕事を入れすぎず、自分の人生を楽しんだり、心身を回復させる時間をしっかりとれるようスケジュール管理をしっかりと行うよう気を付けないといけません。
「医療者のためのLGBTQ講座」が出版された時、読んで欲しいと真っ先に頭に浮かんだのはN先生の顔でした。7年にわたって通ったカウンセリングは、既に終わっていたので、手紙を添えて本を郵送しました。
期待通り、返事は来ませんでした。
N先生に、カウンセリングという特殊な時間を、ルールを定めた時間の中で過ごすという枠組みが大切だということも教えてもらっていました。
N先生は、私のことを恐らく誰よりも知っていると思います。たぶん、私以上に。それでも、きっともう二度と会うことがない。だからこそ、N先生はプロだなぁと思うし、そんなプロのN先生に出会って自分を整えることができたから、私はLGBTQのことに向き合うことができるほどに回復できたのだと思っています。
返事は来なくても、N先生はきっと喜んでくれているだろうと思っています。
カウンセリングを受けていて、唯一にして最大の問題は、金銭的な負荷が大きいことだと思いました。決して安い値段ではなく、休職中に支払うのは結構なダメージでした。金銭的に余裕がなくても、カウンセリングにアクセスできる仕組みが必要だと思います。
長くなりましたが、危なかったあの時に、死なずに踏ん張ってよかったと今感じています。人はこんなにも変われるんだと自分を通して知ることができました。
生き延びた時間を使って、LGBTQの人が死にたいと思う必要なんてない社会作りをしていきたいと思っています。
2022年度の活動のまとめ
2022年度は、準備してきたものが次々に形になった1年でした。
主な成果をまとめますので、学習などに役立てていただけると嬉しいです。
①書籍「医療者のためのLGBTQ講座」が南山堂より出版されました。
第一線でご活躍される方々にご執筆いただき、素晴らしい書籍が完成しました。
こちらは主に医療者向けです。
②日本の医学部におけるLGBTに関する医学教育の横断研究が論文化されました。
こちらは、医学教育に携わっていらっしゃる方には是非お読みいただきたいです。
元論文は英語ですが、プレスリリースの記事は日本語です。
③民医連新聞での連載「にじのかけはし」がパンフレット化されました。
私の職場が所属する民医連の職員向けの新聞で、1年間LGBTQに関する連載をさせていただきました。その内容をまとめたパンフレットが公開されました。
こちらは、医療者でなくても読みやすい内容になっています。
是非お手にとってみてください。
④日本医学教育学会の学会誌『医学教育』にて、「SOGIに配慮できる医療者の教育」という特集が組まれました。
そこに2つの論文を発表し、座談会の司会を務めさせていただきました。
トランスジェンダー当事者の医学生の座談会は、医学教育に関わるすべての方に読んでいただきたいです。
また、国内外でのSOGIに関する卒前医学教育の現状の報告と、一般社団法人にじいろドクターズで提供した6か月の医師向けLGBTQヘルスケア学習コースの紹介を掲載いただきました。
その他、番外編として、様々な方面からインタビューをしていただきました。
⑤朝日新聞のひと欄
全国紙で取り上げていただいたことで、ここから様々な繋がりができました。
⑥タウンニュース
外来のかかりつけの患者さん達から、この記事をみたと声をかけていただきました。
⑦Women in Science Japan
とても丁寧にインタビューしていただきました。
英語で記事にしていただけたので、英語話者の友人達にシェアできました。
⑧東京新聞で書籍をご紹介いただきました。
職場の後輩が東京新聞を購読していて、記事を読みましたと連絡をくれました。
⑨ハフポストで、研究についてご紹介いただきました。
「LGBTについて全く教えない」医学部が3割超。北米の4倍、「受診ためらう当事者も」と専門家が警鐘 | ハフポスト NEWS
⑪日経メディカルさんにも、インタビューを掲載いただきました。
さらに、番外編として宗教関連の媒体でも語らせていただきました。
⑫仏教関連では、東本願寺出版の同朋新聞と「ひとりふたり」という冊子で取り上げていただきました。
⑬キリスト教関連では「LGBTとキリスト教20人のストーリー」という書籍にインタビューを掲載いただきました。
書き出してみると、本当に多くの媒体で扱っていただき感謝しております。
2022年度は、種をまいて広げるというところに力を入れました。
2023年度は、自分の現場での実装に力を入れて活動していきます!
姉が見せてくれた世界 ー私にとっての最強のアライー
本日、3年ぶりに姉一家がカナダから帰国します。まだ幼かった甥っ子たちは、きっと大きくなっていることでしょう。会えるのが楽しみです。
そんなタイミングなので、姉のことを少し書いてみます。
私達の源家族(父親、母親、姉、私)は、なかなか問題てんこ盛りで、「毎日がサバイバル!」的な雰囲気がありました。母は早くに他界し、精神疾患を患う父は親としての機能を果たすのは困難であり、祖母が面倒をみてくれていました。
そんな中、私は女の子であるということにどうも馴染めず、幼い頃から周りからどうも浮いていて、さらに思春期には同性愛者なのではないか・・・という気付きもあり、当時は未来が見えずに”お先真っ暗”と感じ、これまた大変でした。
いくつの時だったか忘れましたが、姉に「私は男の子も好きになることも不可能ではないと思うから、やっぱり頑張って男の人との結婚を目指そうと思う」と打ち明けたことがありました。姉は、間髪入れずに「あんた、それは不幸になるからやめな。絵理子は、女の子と一緒にいる方が絶対幸せになると思うよ。無理してもいいことないよ。」と言いました。まだ、LGBTという言葉もなかった時代のことです。
その後、姉はサンフランシスコの大学に入り、私が20歳の夏に、とにかく1か月遊びにこいと私を呼び寄せました。大学の寮のような施設も予約してくれて、語学学校の入学の手続きもしてくれました。姉は大学でセクシュアリティ論という授業をとっていて、私に英語の教科書を見せながらいろいろと教えてくれました。
さらに、私をカストロという歴史あるゲイタウンに連れていってくれました。
日本をほとんど出たことのなかった私にとって、道路一面に並ぶレインボーフラッグと、あちこちで手をつないでいる同性カップルの存在は、ぶっ倒れそうになるぐらい、泣きそうになるくらい、衝撃的な光景でした。
私も当時、京都大学で始まったばかりのジェンダー・セクシュアリティ論というゼミをとっていて、サンフランシスコで調査のようなものを行いました。サンフランシスコに住んでいる年数が長くなると同性愛嫌悪が減るのかを知りたかったのです。へったくそな英語で勇気を振り絞って、公園にいる人たちに話しかけ、英語の質問紙に30人くらいに回答してもらいました。
今思い返すと、研究としてはまったく成り立っていませんでしたが、私の原点はあそこにあるように感じています。
その後、姉はカナダに住むようになり、ある日、「絵理子はTwo-spiritだと思うんだよ」と言われました。Two-spiritとはカナダやアメリカの先住民族の間で認められてきた、女性と男性の魂両方をもつ人達のことです。その場に父もいて、「僕もそう思う」と言っていました。
「あなたにとって、アライとは?」と聞かれると、まず姉の顔が浮かびます。
同性愛がまだからかいの対象であり、タブー視されていた時代に、私が自分のことを否定しても、姉はいつも私のセクシュアリティをそのまま認めてくれました。そして、未来が見えなかった私に、女性二人のカップルでも幸せに暮らしている人がたくさんいるサンフランシスコという世界を見せてくれました。
名前と顔を出して、セクシュアリティをオープンにして活動することについて、父と姉に相談した時も、まったく問題ないし頑張ってとの返事をもらいました。
家族のことにとても悩んで暮らしてきましたが、同じくらい家族に助けられて暮らしてきました。
セクシュアリティのことで、家族と関係がよくないという友達は少なくありません。
姉が私にしてくれたように、セクシュアリティのことに限らず、私も誰かにとってのアライ、支援者でいたいなと思っています。
ところで、我が家に仲間が加わりました。ミケ子です。ミケ子については、また改めて紹介します。
同志社中高の礼拝での語り
先日、同志社の中学校・高校の礼拝に、動画にてお話させていただきました。
私の個人的な語りですが、誰かに届けばと思い、シェアさせていただきます。
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コリントの信徒への手紙1、第13章13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
皆さん、おはようございます。
初めまして。
私は神奈川県で内科の医師をしている吉田といいます。
突然ですが、皆さん、誰にも言えない苦しい悩み事はありますか?
私が皆さんの年頃の時には、ありました。
およそ30年前、12歳になった時に、キリスト教系の女子中学校に通い始めました。
高校に進んだ時、私は同級生の女の子を好きになったのです。
とても怖い事のように感じ、そのことは秘密にしなければいけないと思っていました。
最近はLGBTという言葉をよく耳にするようになりましたが、当時はそういった言葉も存在しない時代でした。
皆さんは、同性愛のことをどう思っていますか?
さらに言うと、同性を好きになる人のこと、同性のパートナーと一緒に暮らしている人のこと、同性のパートナーと一緒に子育てをしている人のことをどのように思いますか?
別に問題ないんじゃないかと思っている人もいれば、それは大きな罪だと思っている人もいるかもしれません。
皆さんの学校の先生方の中にも様々な考えの人がいると思います。
私は、神様を信じるクリスチャンでもあります。
信仰と自分のセクシュアリティのことについて、生きているのがつらくなるほど悩んだ時期もありました。
聖書が同性愛について何を語っていて、それをどう解釈するのか、基督教の各宗派が同性愛についてどう考えているか、何が正しいのか。
今日はそういったことはお話しません。
セクシュアリティと信仰についてどう悩み、どう生きてきたのか。私の物語を皆さんにお話したいと思います。
私が、友達と自分はどうも違うようだと感じ始めたのは中学校の頃でした。
友達がメイクやファッションの話をしても、私はそういったことに全く関心がなく、制服のスカートを履くのにも抵抗がありました。ボーイッシュな女の子として周りには受け入れてもらえていました。そんな中で、同級生のある女の子のことを好きになったのです。その時に、これはバレたら大変なことになると思い、周りに話せなかっただけではなく、自分にもこれはなかったことだと言い聞かせました。
それから、大学に進学しました。最初は医学部ではなく、理学部という学科に進学しました。初めての1人暮らしで、友達と楽しく過ごし、彼氏もできました。ところが、また好きな女の人ができてしまったのです。女の人を好きになった時の気持ちは、男の人への気持ちよりもずっと強いものでした。
これは、もうごまかせないと思い、そこから私は未来がまったく描けなくなりました。インターネットが自由に使えるようになったばかりの時代で、同性を好きになる人達がどんな暮らしをしているかを知ることもできませんでした。10歳の時に亡くなった母親の墓石の前にいって、私は変態かもしれない、これからどうやって生きていったらいいのだろうかと泣き崩れたこともありました。
悩んでいた時に、様々なセクシュアリティの大学生が集まるサークルに出会うことができました。ゲイやレズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの友達ができ、皆でしょっちゅう集まって、スポーツをしたり、旅行に行ったり、楽しいことをたくさんでき、段々と自分はこのままでいいのだと思えるようになっていきました。
生まれて初めての彼女と付き合うこともでき、本当に楽しい学生生活でした。
そんな中で、家族のことで大きなもめ事があり、私はもっと深く人を愛せる人間になりたいと強く思うようになりました。私の周りには、クリスチャンのいい友人がたくさんいて、あんな風に生きられるようになりたいという憧れがあり、教会に通い始めました。ところが、当時通っていた教会では、同性愛が罪として教えられていました。礼拝の説教で、ゲイの牧師がいるけれど、それは悪魔の遣いだ、と語られた時は、ナイフを突きつけられたような気持ちになりました。
キリスト教を信仰することと、同性愛者であることは両立し得ないのだと思い悩み、付き合っていた彼女に自分が考えていることを話し、別れを選択しました。
それから2年ほど経ち、私は洗礼を受けました。洗礼を受けた時は、ものすっごくハッピーで、私はこれから神様に従って生きていくんだー!と喜んでいました。
ところがです。数年後、また好きな女性ができました。
私は異性愛者として生きていこう、もしくは一生一人で生きていこう、そう考えていても、心はコントロールできません。
クリスチャンになる前よりも深い悩みの中に突き落とされたような状態でした。
悩んで苦しくて、教会の先輩にそのことを打ち明けました。すると、先輩は泣きながら「清く生まれ変わって欲しい」と言い、そのように祈りました。
けれど、私は既に知っていました。これは変われるようなことではないのだと。
何度も泣きながら「同性愛が罪だというのならば、何故あなたは私をこのように作ったのですか」と神様に怒りをぶつけるような祈りをしました。
医師になってから勉強して知ったことですが、かつて同性愛者は病気だとされていて、異性愛者に治そうとする治療が医学の名の元で行われていました。結果、何が起こったか。同性愛者は異性愛者には治りませんでした。それだけではなく、そういった治療を強要された人達は、うつ病になったり、自殺しようとしたり、多くの悪影響を及ぼし、こういった行為には科学的な根拠がなく、今は多くの地域で禁じられています。そして同性愛は病気ではないということが医学的に既に認められています。
こういったことを当時の私は全く知らず、どんどん追い詰められていきました。基督教を信じることと、同性愛者でいること。私はそのどちらもやめることができませんでした。それが罪なのであれば、死ぬしかないのではないか。
そう思い詰めていくうちに、うつ病になりました。身体も心もフリーズしたような状態となり、まったく動けなくなってしまいました。私は医師として働いていましたが、仕事に行けなくなり、しばらく休職しました。
教会にも行けなくなりました。
今思い返すと、教会に行けなくなったのが、よかったと思っています。あのまま教会に通って自分を否定され続けたら、私はここにいなかったのではないかと思います。
皆さん、これから先、もし本当に辛いことがあり、もう生きていけないような状況があったら、逃げてください。死にたくなったら、逃げてください。死にたくなるような場所で頑張り続ける必要はありません。命あってこその人生です。
話を戻します。うつ病になってから、時間をかけて少しずつ回復し、セクシュアリティについての歴史も勉強をしました。この日本社会でLGBTに向けられた偏見を自分の中に吸収し、自分を変態だと思っていたことが今なら分かります。また当時通っていた教会が、同性愛に関して特別厳しい宗派であったことも知りました。
自分自身への偏見が少しずつなくなっていき、今は女性のパートナーと犬と一緒に、穏やかな生活を送っています。家族、友人、職場でカミングアウトし、受け入れもらえ、嘘をつく必要のない、自分が自分でいられる毎日が遅れるようになりました。
そして、今は医師としてLGBTについて医療者に知ってもらうために講演活動などを行っています。医療機関でもLGBTの人たちは差別的な対応にあうことが少なくないのです。
洗礼を受けた時、私は自分の強みを活かして神様に役立つ人間になるぞ!くらいに思っていました。ところが、神様はまったく反対のことをしました。私の最も弱い傷んでいた部分を用いられました。
今日、こうやって皆さんの前でお話していることも、神様の計画なのだと感じています。私は教会から逃げました。今も教会には通っていません。それでも神様は私のことを手放さずにこうして用いてくださっています。
さて、皆さん。最初に聞いたことをもう一度聞きます。
今誰にも言えないような悩み事はあるでしょうか?
たとえあなた以外、誰も知らなくても、神様は知っていらっしゃいます。
その痛みに、神様はすでに触れていらっしゃいます。
また、皆さんは同性を好きになる人をどう思いますか?
そういった人に会った時にどう行動するでしょうか?
そこにあるのは、信仰でしょうか?愛でしょうか?
聖書を手に、正しいことを人に求めると、傷付け合いや争いが起きるでしょう。歴史がそのことを教えてくれています。では、聖書を手に、人を愛することを真に求めたなら、世界はどうなるでしょうか。
私の物語を通して、聖書に書かれている愛とは何かについて、皆さんに考えていただけたら嬉しいです。
習慣とセルフイメージ
先日、ひよこ豆をつかったトマトパスタを作ったと話したら、「吉田さんって料理のレベル高いですよね」と言われ、ものすごく焦って否定したという一幕がありました。
以前ブログで書きましたが、私にはそこそこ強めの料理コンプレックスがあるのですが、平野レミさんをテレビで見たことをきっかけに、料理を始めることができました。
料理を作って、パートナーの杏奈に「美味しい」と言ってもらえた時には、とっても嬉しいのですが、杏奈以外の人に食べてもらうとなると、まだまだハードルが高く、できればその状況を避けたいという気持ちがムクムクと湧いてきます。
ちなみに、学生時代の”手作りの料理持ち寄りパーティー”は、ものっすごく苦手でした。
料理がとっても上手な友達と夕食を一緒に食べている時に、杏奈が「えりちゃんて料理がうまいんだよ」と言って、友達が帰った後に「ああいうことは、もう絶対に言わないで」と少し怒ったこともありました。
要するに、人に食事を作って出すということについて自信がないのです。本当は美味しくないのに無理して食べてもらってたらどうしようと心配な気持ちが付きまといます。
冒頭の「吉田さんって料理のレベル高いですよね」と言われた時にも、気持ちがゾワっとして、早く否定せねば!と焦りました。
ただ後から、”何で私はそんなに料理について褒められるのが怖いのだろう”と不思議に思いました。杏奈と2人の時には、美味しいものが作れると「私って天才かもしれない。いや、天才だわ!」とか言いながら調子に乗ることも多々あるのに、このギャップは何なのだろうと考えてみました。
多分、先に自分は料理が下手です!と宣言しておくことで、友達にまずいと思われて傷付くのを防ぎたいのでしょう。相手が杏奈であれば、まずいと言われても傷付くことはないけれど、友達だとそれが自分の育ってきた環境への否定、更にいうとそういう環境をつくった両親を否定されてしまうように感じるのかもしれません。
これって、文字にしてみると、考えすぎ&感じすぎで、何なら友達との関係性をもうちょっと信用しようよと思いました。
仲のいい友達が、私の作った料理に「これ、あんまり美味しくないかも~」と率直に感想を言ってくれた結果、「私の両親を否定しないで。傷付いた(涙)」って返したら、かなり怖い・・・。話がぶっ飛んでて、怖すぎる・・・・。
そんなこじれている私にも、1つ突破口が見えてきました。
それは、パン。
かれこれ2年ほど、週1~2回、どんなに忙しくても自家製サワードウを使ったパン作りを続けています。100%全粒粉もしくは100%ライ麦粉のパンなので、万人受けする味ではありませんが我が家では好評で、市販のパンは旅行の時以外、一切買っていません。最近は、小麦の値上げに備えて米を使ったパン作りも始めました。
サワードウをダメにしないで継いでいくのは結構手間がかかり、腕というよりも努力が必要です。下手すると、夜11時にベットに入った後に、「あ!パンのこと忘れてた!」と思い出して、キッチンに戻ってサワードウの手入れをしたりしています。
料理に自信がなくても、2年間サワードウのパン作りを続けてきたってのは、なかなかすごいぞと自分を認めることができるようになってきました。
そして、パンは時々、友達に食べてもらっています。
今日も実はブドウパンが美味しそうに焼けてご機嫌になり、久々にブログを書く元気が出ました。
「小さな習慣の積み重ねによってセルフイメージを変えることができる」ということを聞いたことがありますが、まさにパン作りは、私のセルフイメージを変えてくれる習慣となりそうです。
数年後、友達の前でも「私って天才!」と言いながら、料理を出せるようになってたら最高だな~~。
保護犬ピアのお散歩道
久々のブログです。
春には編集に携わった書籍『医療者のためのLGBTQ講座』が出版されたり、初めて研究論文がpublishされ大学からプレスリリースが行われ、複数のメディアから取材依頼をいただき、慌ただしい日々を送っていました。
そんな中で、保護犬ピアが我が家に来てから半年が経ちました。
散歩に行けなくなり、悩んだ時期が長かったので、誰かの役に立てばと思い、我が家での経験をシェアしたいと思います。(まったく面白くないですが、あえて詳しく書きました)
その1、ピアの背景について
ピアは千葉県九十九里浜付近で捕獲され、動物愛護センターに収容された後、ちばわんという団体のスタッフに引き出されました。その後、ちばわんの預かりスタッフさんの元で、2か月ほど過ごしてから我が家にやってきました。犬は大好きだけれど、人間(特に男性と子ども)、自転車、バイクにとても怯える犬でした。
その2,散歩に行けなくなった
ピアが我が家に来た直後は、尻尾を完全にしまいながらも散歩は何とかできていました。ただ、人や自転車とすれ違うと、パニックになり、おしっこやうんちを漏らして怯えていました。徐々に散歩に連れていこうとすると抵抗するようになり、2週間ほど経ったときに、玄関前に座り込み、まったく動かなくなりました。
その3, 自宅にてトレーニング
その後しばらくはまったく散歩に行けず、心配した私達はインターネットや書籍などを読みあさり、まずは飼い主との信頼関係を作る必要がありそうと考え、エサを使ってお座り、待て、伏せといった基本的なコマンドの練習を始めました。室内では全く排泄ができず、庭で何とか排泄は済ませられるようになりました。周りの家から生活音が聞こえるとビクっとして怯えてしまい、時には庭で座り込んで全く動けなくなり、抱きかかえて家に帰ったこともありました。
また玄関前に連れ出して、外にしばらくいるという練習も行いました。足がブルブルと震えていましたが、時間をかけて少しずつ行動範囲を広げ、家の前5mぐらいは時折出られるようになりました。
その4,思い切って朝3時に車で散歩に連れていく
あまりに家から出れず、自宅内で飛び回るようになり、運動不足を実感していました。人がいなそうな朝3時頃を狙って、車で15分ほど離れた公園に連れていったところ、そこでは歩けるようになりました。仕事もあるので、週2回連れていくのが限界でしたが、1回の散歩で1時間ほど歩くようにしました。真冬で、身体の芯から冷え、家に帰ってからのお風呂が最高の時間となりました。公園の周りには大型トラックがたくさん走っていて、ここで徐々に車に慣れていきました。
その5,引越しをし、トレーナーに相談
私達が住んでいたのは23区内で、家の周りを10分歩くと少なくとも10人とすれ違います。ピアにとってこの環境はかなり厳しいのではないかという結論に至り、東京の郊外にあるパートナーの家にプチ引越しをしました。
引越し後も散歩はなかなかうまくいきませんでした。玄関前を犬が通ると、家の中で吠えるようになりました。ピアが来てから3か月ほどは一度も吠えたのを聞いたことがありませんでした。散歩に行けていない分、足に絡みついたり飛びかかってきたりすることが増え、しつけをした方がいいのか悩みました。そこで、トレーナーのところにいってカウンセリングを受けました。結果、「吠えるのも、家で暴れるのも、今はすべてスルーしてください」とはっきりと言われました。家の中で、吠えたりできるようになったのはむしろ成長であり、外でもそういったエネルギーを発散できるようになったら初めてトレーニング開始の段階に至るとのことでした。社会化するために、若いうちになるべく人、自転車、バイクなど苦手なものに触れさせてくださいと言われました。
その6,1時間玄関前に座り込む怪しい飼い主になる
パートナーの杏奈は、トレーナーに言われたことをすぐに実践しました。玄関の前にピアを連れて、毎日1時間そこに座っていました。ピアは相変わらず怯えていたようですが、その間に犬を連れたたくさんの人から声をかけられたそうです。「好奇心があるから大丈夫よ」、「お、ずいぶん慣れてきなぁ」といった声かけをたくさんしてもらい、時には通りがかった人からおやつをもらうこともあり、すごく練習になったようです。
その7, 近くて遠い近所の公園
近所にたくさん犬が住んでいることが救いとなりました。ある日、家の前を大きなプードル犬が通りかかり、その犬についていく形で近所の公園に行くことができるようになりました。それ以来、犬に会いたい気持ちが強く、歩いて5分ほどの近所の公園には散歩に行けることが増えました。
段々と、自転車やバイク、人とすれ違ってもパニックにならないようになり、散歩の時間は朝の4時半と夜の23時から、朝6時と夜7時といったように、私達の生活時間に合わせても外に出られるようになりました。
振り返ってみると、半年前今のように1日2回の散歩(歩いて5分の公園ではありますが)に行けるようになる未来は全く描けていませんでした。一進一退というところがあり、昨日できていたことが急にできなくなることもあります。杏奈は一時、熱心になりすぎて、散歩に行けるようになった後、また散歩に行けなくなった時には、泣いてしまったたこともありました。今では、杏奈の涙も、夜3時のストイックな散歩も、よい思い出です。
でもずっと続いてたら、なかなか大変だったなぁ。
犬のトレーナーの動画や、保護犬の飼い主さんのブログにはとても助けてもらいました。
これからもきっと、いろいろな事があると思いますが、楽しんで過ごしていきたと思います。
LGBTQの活動をどう続けてきたか
4月27日に『医療者のためのLGBTQ講座』という書籍を出版できることとなりました。
たくさんの方にご執筆いただき、素晴らしい書籍となり、医療者に限らず多くの方に手にとっていただきたいと思っています。
出版を記念してのイベントを5月3日(火・祝)にYouTube配信する予定です。(出版記念イベント | にじいろドクターズ)
昨日、できたばかりの書籍を手にして、これまでに感じたことのない喜びが湧き上がってきました。メガネがずれているのも、喜びの表現です。
誰かの役に立つかもしれないで、今日は、私がLGBTQ当事者としてカミングアウトし、活動してきた経緯についてご紹介します。
私は医学部に入る前、理学部の学生だった頃には、悩みつつも友人・家族、周囲の人ほとんど皆にカミングアウトしていました。
それができなくなったのは医学部に編入した時でした。
閉鎖的な医学部という社会では、セクシュアリティへの配慮はまるでなされないことを教員たちや先輩たちの言葉の端々から感じ取り、ここでカミングアウトすると将来の仕事に影響するかもしれないと危機感をもち、セクシュアリティは隠すようになりました。
そこから再びカミングアウトし始めるまで10年以上かかりました。
LGBTQ当事者としては、日々の生活にちょっとした嘘が必要だったり、隠し事があることに慣れきっていたため、自分が病院に受診した際に不都合があっても、そんなものだと思い、医療機関側に課題があることには気付けませんでした。
ある時、LGBTQと医療について対話するというイベントに参加した際に、トランスジェンダーのお子さんがいるという親御さんとお話する機会がありました。お話を聞いている中で、トランスジェンダーの方が医療機関にかかりづらいということを初めて知りました。
医療機関側に課題があるのかもしれない・・・その視点を持ちはじめてみると、気になることがたくさん出てきました。私が医学部で、また医者になってから見聞きしてきた医療者の配慮ない言動は、このままではいけないのではないかと感じるようになりました。
世の中を見渡すと、渋谷区で同性パートナーシップ制度が始まり、LGBTQの社員や顧客のサポートを表明する企業がどんどん増え、教育界や法曹界での動きも活発になってきていました。ところが、、、、医療界、特に医師集団のアクションはほとんど見えませんでした。
誰かLGBTQのことに取り組んでくれないかな・・・そう思って数年が経っても、大きな動きはありませんでした。
そんな中で、臨床研究を学びたいというモチベーションから社会人大学院に入学しました。ところが入学直前に目の疾患を患い、2週間ほどほとんど目が見えないという状況に陥りました。なかなか視力が元通りにならず、仕事もままならない中で、研究を進めるモチベーションが下がってしまい、研究テーマを再考する必要に迫られました。私がLGBTQ当事者であることをお伝えしていた教授とディスカッションさせていただく中で、「LGBTQの研究をしてもいいだよ」と声をかけていただきました。
LGBTQの研究をするという考えは、その瞬間まで1つもなかったのですが、自分にとってとても大切なことであり、本気で取り組めるテーマだと感じ、研究テーマをLGBTQと医学教育に決めました。
私はLGBTQコミュニティにほとんど出入りしておらず、LGBTQの知り合いは学生時代以来ほとんど増えていない状態でした。医療者のLGBTQのイベントをネットで見つけ、初めて参加して、主催者の方に、「これから医療の世界で活動をしていきたいのだけれど、人脈がないので知り合いを紹介してください!」と話しかけにいくという無礼をしました。その主催者の方は懐の深い方で、その後も一緒に対話の企画などをさせていただいています。
そこから、LGBTQの活動家の知り合いが増え、いろんなことを教えてもらい、サポート団体ともつながることができました。
ただ、当事者としてというよりも、医師としての自分としては、気持ちがなかなか追いつきませんでした。
大学図書館で”Homosexual”という単語が題名に入っている論文を取り寄せる必要があるときには、司書の方に変に思われるんじゃないかと不安に思い、用紙を提出するまでに1時間かかりました。
自分が当事者であることを隠しながら、LGBTQの研究をしていると伝えることは私にとっては難しく、大学院の内部の勉強会で発表する際にカミングアウトすることに決めました。ところが初めて発表した時には、不安や恐怖から大泣きしてしまいました。その後、研究を通称名で行えないのかというディスカッションがなされるほどの状況でした。その際に、指導教員というよりも、お父さんのように心配してくださった教授の優しさに、今も支えていただいています。
LGBTQ当事者と名乗り出ている医師は少なく、医学部での講演や、病院・大学での講演などをご依頼いただく機会が少しずつ増えていきました。
当事者であっても、LGBTQと医療についての学びは始めたばかりで、医学部で講義できるほどの知識はなく、インターネットで情報を集めたり、英語の分厚い本を初めて読破しながら、何とか形にしていきました。初回の講演では、活動家の大先輩にゲストスピーカーとして来ていただきました。ゲストスピーカーというよりも、その先輩に指導していただいて、やっと講演ができたという感じでした。
活動を開始してから約4年ほど経ちましたが、今も日々学んでいて、発表スライドは少しずつ更新しています。
そんな中で、イギリスやアメリカなどの医師の活動家とメールをやりとりできる機会があり、どうやって医療界を変えていったらいいかを相談したところ、返事は「1人でできることはほとんどない、仲間を増やせ」と全員から同じアドバイスをいただきました。
ちょうど、その頃、今にじいろドクターズとして一緒に活動している代表理事の坂井雄貴先生と知り合うことができました。この出会いは、私の人生を変えてくれました。坂井先生を通して、にじいろドクターズのメンバーと出会うことができ、LGBTQのケアに関心のある医師仲間ができ、私は孤独ではなくなりました。
そして、2021年にその仲間達と一般社団法人にじいろドクターズを立ち上げることができました。
書籍『医療者のためのLGBTQ講座』は、LGBTQの人々のケアに関心をもった医師が英語文献を読みあさらずに初めの一歩を知ることができる本になりました。さらに支援団体や実践家の方々にも執筆いただいたことで、当事者の方にもきっと学びのある書籍となったと感じています。
パートナーの杏奈に読んでもらったところ、「こうやって活動してくれている人たちがいるって知れてすごく嬉しいし、励まされた」と泣いていました。この書籍には、そういうパワーもあるんだなぁと思いました。
私は2018年頃に活動を始めたヒヨッコです。それでも、やれることがありました。
日本がLGBTQの人々がもっと生きやすい、さらに言えば様々なバックグランドがある人達が生きやすい社会になっていくためには、あなたの力も必要です。
是非、仲間になってください。一緒に声をあげましょう。
読んでいただき、ありがとうございました。